佐久市の龍岡城五稜郭、できた理由と函館五稜郭との違いを徹底解説

長野県佐久市にある龍岡城五稜郭は、函館とともに日本に2つしかない星形の西洋式城郭です。幕末の1867年に田野口藩主・松平乗謨が建造し、面積は函館の4分の1。
最大の違いは、函館が幕府の防衛拠点だったのに対し、龍岡城は小藩の藩庁として建てられ、未完成のまま明治維新を迎えた点です。
現在は国指定史跡として保存され、2023年まで小学校が置かれていた全国でも珍しい歴史遺産として、佐久市の文化的アイデンティティを形成しています。
北海道だけじゃない!長野県佐久市にもある「五稜郭」の謎
「五稜郭」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは北海道函館市の観光名所でしょう。箱館戦争の舞台として、土方歳三と榎本武揚が最後の戦いを繰り広げた場所。上空から見ると美しい星形を描く、日本を代表する西洋式城郭です。
しかし、実は日本にはもう一つの五稜郭が存在します。
それが、長野県佐久市田口地区にある龍岡城五稜郭です。
「え、長野県に?なぜ?」と驚く方も多いでしょう。内陸の山間部に、なぜ西洋式の星形要塞が建てられたのか。函館の五稜郭とは何が違うのか。そして、この歴史遺産は佐久市という地域にどんな意味を持つのか。
この記事では、龍岡城五稜郭の建造理由から函館五稜郭との違い、そして移住を検討している方々にとっての地域的価値まで、徹底的に解説します。
佐久市への移住を考えている方にとって、この龍岡城五稜郭は単なる観光スポットではありません。地域の歴史的アイデンティティを象徴し、住民の誇りとなっている文化財なのです。
龍岡城五稜郭とは?まず知っておきたい基本情報
日本に2つしかない星形城郭の一つ
龍岡城五稜郭は、江戸時代末期の1864年(元治元年)に着工し、1867年(慶応3年)に完成した西洋式の星形城郭です。
最も重要な事実は、函館五稜郭とともに、日本国内に現存する星形の稜堡式城郭はこの2つだけという点です。
五芒星形に突き出した5つの「稜堡(りょうほう)」を持つこの独特な形状は、ヨーロッパで発展した築城技術を日本に取り入れた貴重な例です。別名「龍岡五稜郭」「桔梗城」とも呼ばれ、その形が桔梗の花に似ていることから名付けられました。
国指定史跡としての価値
龍岡城跡は1934年(昭和9年)5月1日に国の史跡に指定されました。さらに2017年(平成29年)4月6日には、公益財団法人日本城郭協会によって**続日本100名城(129番)**に選定されています。
これは単に「珍しい」というだけでなく、日本の近代化の過程で西洋の軍事技術をどのように受容したかを示す重要な歴史的証拠として、学術的にも高く評価されているということです。
規模と構造の概要
龍岡城の総面積は約2万75坪(約6万6,500㎡)。一辺の長さは145m~150mです。
現在残されている遺構は以下の通りです:
- 堀と土塁:星形の形状が今でも明確にわかる状態で保存
- 石垣:稜堡式の特徴的な低い石垣
- 御台所(おだいどころ):御殿の一部として唯一現存する建造物
城郭内には長年、佐久市立田口小学校が置かれていましたが、2023年3月に閉校。現在は自由に見学が可能となり、竣工時の姿に近い状態への復元整備計画が進められています。
なぜ佐久市に五稜郭が?建造された3つの理由

理由1:領地の大部分が佐久にあった地理的必然性
龍岡城を建造した奥殿藩(おくどのはん)は、もともと三河国(現在の愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いていました。しかし、実際の領地構成を見ると、1万6千石のうち1万2千石余りが信濃国佐久郡にあり、奥殿周辺にはわずか3千石余りしかなかったのです。
これは江戸時代の大名配置の中で生じた矛盾でした。実質的な支配拠点と藩庁の所在地が大きく離れていたため、効率的な藩政運営が困難だったのです。
1863年(文久3年)、8代藩主・松平乗謨(まつだいらのりかた)は、この矛盾を解消するため、江戸幕府に対して信濃国佐久郡への藩庁移転と新陣屋建設の許可を願い出ました。そして許可を得て、佐久の田野口(たのくち)の地に新たな藩庁を建設することになったのです。
理由2:幕末の危機感と西洋軍学への傾倒
なぜ単なる「陣屋」ではなく、西洋式の五稜郭を選択したのか。
それは松平乗謨の時代認識と、彼自身の西洋軍学への深い理解が背景にありました。
1853年(嘉永6年)のペリー来航以降、日本は未曽有の国難に直面していました。黒船の圧倒的な軍事力を目の当たりにした幕府と諸藩は、近代的な軍備の必要性を痛感します。
松平乗謨は、幼少時から聡明で知られ、特に西洋事情に通じていました。ペリー来航後、彼は軍備の増強・革新の必要性を強く認識し、農民兵を徴募して歩人隊を編成するなど、早くから軍制改革に取り組んでいました。
1857年(安政4年)には幕府の軍事取調掛に任命され、フランス語や蘭学、西洋兵学を本格的に学びます。そして1866年(慶応2年)には陸軍総裁という幕府の最重要軍事ポストに就任しました。
西洋の軍事技術、特にフランスのヴォーバン元帥が考案した稜堡式築城法を深く研究していた松平乗謨にとって、新しい藩庁を建設するなら、最新の西洋築城術を採用するのは自然な選択だったのです。
理由3:小藩ゆえの「実験的」挑戦
興味深いことに、龍岡城は1万6千石という小藩が建てた城です。
城主の格式さえ認められない「陣屋格」の藩でありながら、当時最先端の西洋式城郭を建造したという点に、松平乗謨の野心と実験精神が表れています。
総工費は4万両。小藩としては破格の投資でした。約60名の石工職人を動員し、伊那高遠藩から西洋式築城の技術を持つ石工を招くなど、本格的な取り組みでした。
ただし、この「実験的性格」が後述する「未完成」という結果にもつながることになります。
建造主・松平乗謨という稀有な人物
幕末の開明派大名としての経歴
松平乗謨(まつだいらのりかた、1839年~1910年)は、龍岡城を語る上で欠かせない人物です。
1839年(天保10年)11月13日、奥殿藩7代藩主・松平乗利の長男として江戸で誕生。1852年(嘉永5年)、わずか13歳で父の隠居により家督を継ぎました。
彼の特徴は、開明的な思想と実務能力の高さでした。
幕府での経歴を見ると:
- 1857年(安政4年):軍事取調掛
- 1862年(文久2年):大番頭
- 1864年(元治元年):若年寄
- 1865年(慶応元年):陸軍奉行
- 1866年(慶応2年):老中格陸軍総裁
このように、幕末の混乱期に幕府の要職を歴任し、特に軍事面で中心的な役割を果たしました。
明治維新後:大給恒として日本赤十字社の創設者に
戊辰戦争が始まると、松平乗謨は情勢を見極め、老中と陸軍総裁を辞任。松平姓を捨て「大給恒(おぎゅうゆずる)」と改名し、新政府に恭順しました。
そして明治維新後の功績が、彼の人物像をさらに際立たせます。
1877年(明治10年)、西南戦争の悲惨な状況を見かねて、佐野常民とともに「博愛社」を設立しました。これが後の日本赤十字社です。大給恒は初代副総裁として、日本の人道支援活動の礎を築きました。
さらに、明治政府では勲章制度の確立に貢献。賞勲局総裁として、現在も使われている勲章のデザインを考案したとされています。
龍岡城と大給恒の関係
現在、龍岡城の城内には大給恒の胸像が建立されています。
「日本赤十字社をつくり育てた人」として、地元佐久市では尊敬を集める人物です。龍岡城は彼の若き日の野心と挑戦の象徴であり、同時に地域と深く結びついた人物の記憶を伝える場所となっているのです。
函館五稜郭との5つの決定的な違い

多くの人が疑問に思うのが「函館の五稜郭と龍岡城は何が違うの?」という点でしょう。同じ星形の城郭ですが、実は多くの点で大きく異なります。
違い1:建造時期(わずか3年の差)
函館五稜郭:1866年(慶応2年)完成 龍岡城五稜郭:1867年(慶応3年)完成
龍岡城は函館五稜郭の完成からわずか3年後に完成しました。
時代背景を考えると、両者ともに大政奉還の直前という、江戸幕府が崩壊する寸前の時期に完成したことになります。皮肉なことに、どちらも完成してすぐに時代が変わり、本来の目的を十分に果たせませんでした。
違い2:規模(函館の4分の1)
函館五稜郭:
- 総面積:約25.2ha(約7万6,000坪)
- 一辺の長さ:約297m
龍岡城五稜郭:
- 総面積:約2万75坪(約6万6,500㎡=約6.7ha)
- 一辺の長さ:145m~150m
面積で比較すると、龍岡城は函館五稜郭の約4分の1の規模です。
上空から両者を同じ縮尺で並べて見ると、その大きさの違いは一目瞭然。函館五稜郭が広大な公園として市民の憩いの場になっているのに対し、龍岡城は小学校の校庭を含む程度のコンパクトな規模です。
この規模の違いは、建造目的と予算の違いを如実に物語っています。
違い3:建造目的(国防 vs 藩庁)
函館五稜郭: 江戸幕府が外国の脅威に備えて建造した防衛拠点。1854年の日米和親条約により函館港が開港されたことを受け、箱館奉行所の移転先として、外国船から見えない内陸部に築かれました。設計者は蘭学者の武田斐三郎で、西洋式築城術の書籍を基に設計されました。
龍岡城五稜郭: 田野口藩(後の龍岡藩)という1万6千石の小藩の藩庁として建造。国防というより、藩の政務と藩主の居住を兼ねた施設でした。実際、城主の格式は認められず、正式には「田野口陣屋」という扱いでした。
この目的の違いが、両者の性格を大きく分けています。
違い4:完成度(函館は部分的未完成、龍岡城はより未完成)
函館五稜郭: 当初の計画では、5つの出入口全てに「半月堡(はんげつほ)」と呼ばれる三角形の防御施設を設ける予定でしたが、予算の関係で正面の1カ所のみに設置。また、周囲に7つの砲台を設ける計画も一部しか実現しませんでした。
龍岡城五稜郭: さらに未完成の度合いが高く、西面・南西面の堀は未完成のまま(約270mが未完成)。建物についても、瓦は全部準備されていたのに一割程度しか使用されず、ほとんどが板葺きのままでした。
龍岡城が未完成に終わった理由は、松平乗謨が老中格・陸軍総裁に就任して公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなったためとされています。
違い5:歴史的役割(戦場 vs 平和的移行)
函館五稜郭: 1868年~1869年の箱館戦争で、榎本武揚率いる旧幕府軍の本拠地となり、実際に戦闘が行われた戦場でした。新政府軍の艦砲射撃を受け、激しい攻防戦の末に降伏。日本史上、五稜郭が本来の防衛機能を発揮した唯一の例です(ただし結果的には敗北)。
龍岡城五稜郭: 完成した1867年は大政奉還の年。翌1868年に戊辰戦争が始まると、松平乗謨は早々に新政府側に恭順。龍岡城は一度も戦場になることなく、平和的に明治維新を迎えました。
1872年(明治5年)に建物は解体され、役目を終えた龍岡城は、その後学校用地として平和的に活用されることになります。
星形要塞の秘密:なぜ「星形」なのか?西洋築城術の軍事的意義
大砲時代の到来が変えた城の形
なぜ五稜郭は星形なのでしょうか?この独特な形状には、明確な軍事的合理性があります。
15世紀以前のヨーロッパでは、城は高い石壁や塔で守られていました。しかし大砲が発明されると、状況は一変します。
高い城壁は大砲の格好の標的となり、砲弾が命中すると石壁が崩れ、破片が飛び散って多くの負傷者を出しました。高い塔は遠くから狙いやすく、特に危険でした。
この問題に対処するため、ヨーロッパの築城技術は大きく変化します:
- 城壁を低くする:砲弾の標的になりにくくする
- 石ではなく土を使う:土は砲弾の衝撃を吸収できる
- 死角をなくす:どの方向からの攻撃にも対応できるようにする
この3つの要求を満たす理想的な形状が、星形の稜堡式城郭だったのです。
ヴォーバン式築城法の採用
龍岡城と函館五稜郭が採用したのは、17世紀フランスの築城家セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン元帥が体系化した稜堡式築城法です。
ヴォーバンはルイ14世に仕え、フランス各地に多数の要塞を設計しました。彼の築城理論の核心は:
「稜堡(りょうほう)」と呼ばれる突出部を配置することで、十字砲火を可能にし、死角をなくす
星形の各突出部(稜堡)に大砲を配置すると、隣り合う稜堡からも側面射撃ができるため、敵はどの方向から攻めても常に複数の方向から砲火を浴びることになります。
これが「十字砲火」の威力です。
龍岡城における稜堡の特徴
龍岡城の稜堡には、いくつかの特徴的な要素があります:
刎ね出し石垣: 石垣の上部で、庇のように石が一列飛び出している部分。これは「武者返し」「しのび返し」とも呼ばれ、敵の侵入を防ぐための工夫です。
低い土塁: 龍岡城の土塁は函館五稜郭と比べてもさらに低く、実用的な防御としては不十分だったという指摘もあります。これは西洋の専門家の関与がなく、日本人が独自に解釈して建造したためと考えられています。
和洋折衷の枡形虎口: 興味深いことに、龍岡城の西側の入口には**日本の城で伝統的な「枡形虎口(ますがたこぐち)」**が設けられています。西洋築城術の中に和式の技術を混ぜ込んだ、独特の設計です。
未完成に終わった理由:明治維新という時代の波
1867年という運命の年
龍岡城が完成したのは1867年(慶応3年)4月。この年の10月に大政奉還が行われ、12月には王政復古の大号令が発せられました。
つまり、完成してわずか半年後には江戸幕府が崩壊するという、最悪のタイミングでした。
松平乗謨は完成時に領民や藩士にこの新型城郭の見学を許したと記録されています。彼にとって、この西洋式城郭は誇るべき成果だったのでしょう。しかし、時代はすでに彼の理想を超えて動いていました。
戊辰戦争と松平乗謨の選択
1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が勃発します。
幕府の陸軍総裁という立場にあった松平乗謨でしたが、彼は冷静に情勢を分析しました。徳川慶喜が大坂城から江戸に退去し、旧幕府軍が戦意を喪失する中、彼は現実的な選択をします。
老中と陸軍総裁を辞任し、松平姓を捨てて「大給恒」と改名。新政府軍に恭順したのです。
この決断により、龍岡城は戦場になることを免れました。しかし同時に、軍事施設としての龍岡城は、本来の目的を果たすことなく役目を終えたのです。
廃城と平和的転用
1872年(明治5年)、明治政府の方針により龍岡城の建物は取り壊されることになりました。
地所と石垣はそのままに、建物は入札払い下げとなり、残りは解体。御殿を構成していた建物のうち、「御台所」だけが城郭内で位置を変えて残されました。
大広間は佐久市鳴瀬の時宗寺の本堂として移築され、東通用門は佐久市野沢の成田山薬師寺の門として現存しています。
そして1875年(明治8年)、田野口村の尚友学校が城跡に移転。以後150年近く、龍岡城跡は学校用地として使われることになります。
戦場にならず、学校になった。これが龍岡城の平和的な運命でした。
現在の龍岡城:150年の歴史を経て
全国唯一「城の中の小学校」の閉校
2023年3月まで、龍岡城の中には佐久市立田口小学校がありました。
「城の中に学校がある」というのは全国でも極めて珍しいケースで、地元の子どもたちは毎日、国指定史跡の中で学び、遊んでいたのです。
長年、校地内の遺構見学は休日開放日に限られていましたが、2023年の閉校以降は自由見学が可能になりました。
復元整備計画の始動
田口小学校の閉校を契機に、佐久市は竣工時の龍岡城にできる限り近い状態に戻す整備計画を進めています。
小学校の全施設を解体撤去し、本来の星形城郭の姿を取り戻す。これは地域にとって大きなプロジェクトです。
完全な復元が実現すれば、函館五稜郭とはまた違った、コンパクトながら精緻な星形城郭の姿を見ることができるでしょう。
見学のポイント
現在、龍岡城を訪れる際の主な見どころは:
1. 星形の堀と土塁 地上から見ても、星形の形状は明確にわかります。堀に沿って歩くと、稜堡の角度や配置の工夫を実感できます。
2. 御台所(おだいどころ) 現存する唯一の建造物。事前予約(原則20名以上の団体)で内部見学が可能です。5月の連休期間は一般公開されます。
3. 様々な石積み技法 野面積み、布積み、亀甲積みなど、多様な石積み技法が見られます。約60名の石工職人が3年かけて積み上げた技術の結晶です。
4. 枡形門跡 西の入口にある日本式の枡形虎口。西洋築城術の中に和の技術が混在する、独特の構造です。
5. 田口城跡の展望台 近くの蕃松院から登山道を30分ほど登ると、田口城跡の展望台に到着。ここから見る龍岡城の全景は圧巻です。星形の美しさを上空から確認できる貴重なスポットです(登山靴推奨)。
6. 佐久市歴史の里五稜郭であいの館 大手門前にある資料館。龍岡城に関する展示があり、龍岡城五稜郭保存会のボランティアガイドが常駐しています。続日本100名城のスタンプもここにあります。
移住者が知っておきたい龍岡城と佐久市の魅力
歴史的資産が地域にもたらす価値
佐久市への移住を検討している方にとって、龍岡城五稜郭は単なる観光スポット以上の意味を持ちます。
地域のアイデンティティの核として、龍岡城は住民の誇りであり、地域コミュニティの結束点になっています。
龍岡城五稜郭保存会のボランティア活動、小学校での郷土教育、毎年のイベントなど、この歴史遺産を中心に地域が動いています。
「健康長寿の里」佐久市の文化的背景
佐久市は「ぴんころ地蔵」で知られる健康長寿の里です。「ぴんぴん元気に長生きし、寝込まずころりと大往生する」という願いが込められた地域です。
龍岡城周辺にはウォーキングコースが整備され、「佐久ぴんころウォーク」という年次イベントでは、龍岡城五稜郭や蕃松院を巡る8kmのロングコースが設定されています。
歴史を感じながら健康づくりができる。これが佐久市の魅力です。
アクセス
鉄道アクセス:
- JR小海線 臼田駅から徒歩約20分(1.5km)
- JR佐久平駅から車で約24分(10.9km)
- JR軽井沢駅から車で約51分(30.6km)
車でのアクセス:
- 上信越道 佐久ICから一般道で約29分(13.3km)
- 上信越道 軽井沢ICから約55分(41km)
駐車場: 「であいの館」に無料駐車場あり(普通車15台程度)
臼田地区は佐久市の中でも歴史的な雰囲気が色濃く残る地域です。千曲川沿いの田園風景が広がり、山々に囲まれた静かな環境。都会の喧騒から離れ、歴史と自然に囲まれた生活を求める移住者には理想的なエリアといえるでしょう。
地域コミュニティとの繋がり
龍岡城五稜郭保存会は、地域住民が中心となって運営されています。ボランティアガイドとして活動する会員の方々は、龍岡城への深い愛着と知識を持ち、訪問者に丁寧に解説してくれます。
移住者がこうした地域活動に参加することで、自然と地域コミュニティに溶け込むことができます。歴史遺産を「守る」「伝える」という共通の目的が、新旧住民の架け橋になっているのです。
教育環境としての価値
田口小学校は閉校しましたが、150年近く「城の中の小学校」として、子どもたちに郷土の歴史を身近に感じさせる貴重な教育環境でした。
現在、佐久市では他の小学校との統合が進んでいますが、郷土教育の重視という方針は変わりません。龍岡城五稜郭の歴史は、佐久市の子どもたちが必ず学ぶ地域の誇りです。
子育て世代の移住者にとって、子どもが地域の歴史と文化を深く学べる環境は大きな魅力でしょう。
佐久市の移住支援と龍岡城エリア
佐久市は移住促進に積極的な自治体です。空き家バンク制度、移住相談窓口、各種補助金制度など、移住者を支援する体制が整っています。
臼田地区を含む佐久市全域で、移住者向けの物件情報が提供されており、空き家の活用も進んでいます。龍岡城周辺エリアにも、リノベーション可能な古民家や手頃な価格の物件が見つかる可能性があります。
歴史的資産の近くに住むということは、単に「観光地の近く」というだけでなく、地域の文化的な中心に近いということ。日常生活の中で歴史を感じ、地域の誇りを共有できる環境は、移住生活を豊かにしてくれるはずです。
大給恒(松平乗謨)の遺産:日本赤十字社との繋がり
龍岡城を語る上で忘れてはならないのが、建造主・松平乗謨(大給恒)のもう一つの偉大な功績です。
西南戦争と博愛社の創設
1877年(明治10年)、西南戦争が勃発しました。この内戦の悲惨な状況を見た大給恒は、佐野常民とともに**「博愛社」を創設**します。
これは戦場での傷病者救護を目的とした組織で、敵味方の区別なく人道的な救護活動を行うという、当時としては画期的な理念でした。
博愛社は後に日本赤十字社と改称され、現在に至るまで日本の人道支援活動の中心的組織として機能しています。大給恒は初代副総長として、その基礎を築きました。
龍岡城内の大給恒胸像
現在、龍岡城の城内には「日本赤十字社をつくり育てた人」として、大給恒の胸像が建立されています。
若き日に西洋式城郭という野心的な建築に挑戦し、明治維新後は人道支援という新たな分野で日本の近代化に貢献した。その両方の功績を、龍岡城という場所が象徴しているのです。
岡崎市・佐賀市との都市交流
大給恒の功績を通じて、佐久市は他の都市とも交流を深めています。
**岡崎市(愛知県)**との交流: 松平乗謨(大給恒)が奥殿から田野口に藩庁を移した縁で、岡崎市と佐久市は自治体交流を行っています。
佐賀市との交流: 大給恒が佐野常民(佐賀出身)と共に博愛社を組織した縁で、佐久市と佐賀市も交流しています。
こうした都市間ネットワークも、龍岡城という歴史遺産がもたらす無形の価値です。
龍岡城から学ぶ:幕末日本の西洋受容
「模倣」ではなく「解釈」
龍岡城五稜郭を見て興味深いのは、完璧な西洋式城郭のコピーではないという点です。
西洋の専門家の関与がなかったため、土塁の高さや堀の幅は本来の稜堡式城郭としては不十分。石垣の積み方も日本の伝統技術が混在し、枡形虎口のような和式の要素まで組み込まれています。
これは「失敗」ではなく、日本人が西洋の技術をどのように理解し、独自に解釈したかを示す貴重な事例です。
明治維新後の日本が急速に近代化を進める際、ただ西洋を模倣するのではなく、日本の文化や技術と融合させながら独自の発展を遂げた。その萌芽が、龍岡城の和洋折衷の築城術に見て取れるのです。
小藩の挑戦が示すもの
1万6千石という小藩が、当時最先端の西洋式城郭に挑戦したという事実も重要です。
幕末の日本は、大藩だけでなく小藩も、それぞれの立場で近代化に取り組んでいました。龍岡城は、地方の小藩が中央の動きに追随するだけでなく、独自の判断で改革を試みた証拠です。
未完成に終わったとはいえ、その挑戦の精神は評価に値します。
五稜郭公園と地域の未来
復元整備がもたらす可能性
田口小学校の跡地を含めた龍岡城の復元整備計画は、佐久市にとって大きなプロジェクトです。
完全な復元が実現すれば、函館五稜郭に次ぐ、日本で二番目の本格的な星形城郭公園が誕生します。
函館五稜郭が年間数百万人の観光客を集める観光拠点であることを考えると、龍岡城にも同様のポテンシャルがあります。ただし、函館のようなマスツーリズムではなく、歴史愛好家や教育旅行を中心とした質の高い観光を目指すべきでしょう。
五稜郭公園の現状と魅力
龍岡城の隣には五稜郭公園が整備されています。
函館の五稜郭とともに日本に二つしかない龍岡城五稜郭の星型城郭をデザインした芝生広場があり、夏場には水遊びができる遊水池、複合遊具や健康遊具なども設置されています。
家族連れが気軽に訪れて歴史に触れられる、地域の憩いの場として機能しています。
川村吾蔵記念館との文化的連携
五稜郭公園の近くには川村吾蔵記念館もあります。
川村吾蔵(1884-1954)は、佐久市出身の彫刻家で、東京藝術大学の前身である東京美術学校で学び、文展で活躍した人物です。龍岡城五稜郭という歴史遺産と、近代彫刻という芸術文化が、同じエリアで共存している点も、この地域の文化的豊かさを示しています。
続日本100名城としての価値
城郭ファンの聖地
2017年に**続日本100名城(129番)**に選定されたことで、龍岡城は全国の城郭ファンから注目を集めるようになりました。
「日本100名城」は公益財団法人日本城郭協会が選定した日本を代表する城郭のリストで、全国の城郭ファンがスタンプを集めながら巡る「城めぐり」の指標となっています。
続日本100名城に選ばれたことで、龍岡城はマニアックな存在から、全国区の歴史遺産へとステップアップしました。
御城印コレクション
龍岡城では**御城印(ごじょういん)**が販売されています。
「であいの館」で購入できる御城印は、大給乗龍氏直筆のデザインで、1枚300円(税込)。城郭ファンにとっては、訪問の記念として人気のアイテムです。
こうした取り組みも、歴史遺産を現代に活かし、持続可能な形で保存していくための工夫です。
まとめ:歴史と未来が交差する佐久市の龍岡城五稜郭
龍岡城が教えてくれること
龍岡城五稜郭は、日本の近代化の過程を象徴する貴重な歴史遺産です。
函館五稜郭との違いを通じて見えてくるのは:
- 地方の小藩も、独自の判断で近代化に挑戦した
- 西洋技術の受容は、模倣ではなく日本的解釈を伴った
- 未完成に終わったが、平和的に転用され地域に根付いた
- 建造主は明治維新後も社会貢献を続けた
これらの要素が、龍岡城という一つの場所に凝縮されています。
なぜ佐久市に五稜郭ができたのか:答え
この記事の冒頭で投げかけた疑問に、改めて答えるなら:
龍岡城が佐久市にできたのは、地理的必然性(領地の大部分が佐久にあった)、時代の危機感(幕末の国難と西洋軍学への関心)、そして松平乗謨という開明的な藩主の野心が重なった結果です。
函館の五稜郭が「国防」という大義のもとに幕府が建てた巨大要塞だったのに対し、龍岡城は小藩の藩主が「自分の藩庁」として建てた、よりパーソナルな挑戦でした。
その規模は函館の4分の1、完成度も低かった。しかし、地方の小藩が最先端技術に挑戦した勇気と、未完成のまま戦場にならず平和的に転用された運命が、龍岡城の独自の価値を形作っています。
移住希望者へのメッセージ
佐久市への移住を考えている方へ。
龍岡城五稜郭は、この地域が持つ歴史への誇りと、未来への挑戦精神を象徴しています。
150年前、小さな藩が大きな夢を持って挑戦した場所。その夢は未完成に終わったかもしれませんが、形を変えて地域に根付き、今も住民の誇りとして生き続けています。
そして今、田口小学校の閉校を機に、新たな整備計画が動き出しています。歴史を守りながら、新しい価値を創造していく。その過程に、新しい住民として参加できることは、移住の大きな魅力ではないでしょうか。
歴史と未来が交差する場所、佐久市。龍岡城五稜郭は、その象徴です。
最後に:訪問のすすめ
この記事を読んで少しでも興味を持たれたなら、ぜひ実際に龍岡城を訪れてみてください。
上空から見る星形の美しさも素晴らしいですが、地上を歩いて稜堡の角度を体感し、石垣の積み方を観察し、堀に沿って一周する。その体験の中で、幕末の人々が何を考え、何に挑戦したのかが、少しずつ見えてくるはずです。
そして「であいの館」で、龍岡城五稜郭保存会のボランティアの方々の話を聞いてください。彼らの龍岡城への愛情と知識は、どんなガイドブックよりも価値があります。
龍岡城五稜郭は、単なる観光地ではなく、生きている歴史です。その歴史の一部に、あなたも触れてみませんか?
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